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行く雲、流れる水

修行僧の事を、雲水と呼びます。
行雲流水とは修行僧の事なのです、雲の様に行き、水の様に流れる。
抵抗しない。

それが仏教僧の理想の姿と心得ております。

気づいたらSMしてたんですよ・・・・


これね。




私が僧侶としてお寺に常駐しなくなってから、常に気を付けている事なのです。
自然に流れた場所が、私には必要だと思う事。
お寺に常駐していては、私は僧侶として生きる事が出来なかった。
少し矛盾した話にも見えますが、

止まる事、流れに抵抗する事、とても辛かったのです。

お盆で久々に師寮寺(師匠のお寺)に戻り、改めて想いました。

私はSMを自然に選んだ。
自分として、進んだのだと。

私は元々寺の娘です、師匠は実の父親です。
ですから、仏教に出会った事は産まれた責任であり、必然的な物です。
(夏コミ圏外の人生も笑)
そして、受動的であり。
尚且つ、自も他も、内も外も、無く、当たり前に私の根源的な、私その物です。

そして、その自己という仏教を本体にして、SMの世界に流れ着いた。
私が今居るべきはあすこで間違いがなかったと、
そう、夏の夕風に吹かれながら思ったのです。


世界は私を育てる為に存在してくれてる。
それをどうして見下せようか、どうしてけなせようか、どうしてどうして、、
自己中心的も、突き詰めれば慈しみになります。
極め、突き詰める。
慈しめるまで、とことん自己中心的になってやろうと思う。
反面教師なんて呼び方でなく、全てが師であり仏だと、心から想える時、私自身を慈しむ事が出来るのでは無いかと、信じています。

SMは、エゴマゾとか勘違いとか、そんな言葉が蔓延ります、それは慈しみまで辿り着いてない、ただの修業中の身であるというだけだと思っていたい。
それが本質では無いと。

いつか、本当の慈しみを実践出来るように、今日も今日とて歩き続けるのです。





コメント

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素適な記事をありがとうございます。

初めまして。修行僧の方を行雲流水を言う事、初めて知りました。私は僧籍はありませんが、漱石を好きで彼は晩年「則天去私」と言う境地に至ったと言います。私を取り去り、天に委ねること、だそうですね。深い思慮を持ってとった行動さえも、人の運命を過ちに導く、漱石の作品にはそんなシーンが度々出てまいります。私は修行僧ではありませんが、ブログを拝読し、漱石を想い、人生を歩いてみたいな、そんなことをお盆の終わりに想うのでした。「叩けよ、さらば開かれん」そう書いたのは聖書でしたでしょうか。パープルムーンの扉を叩くのを躊躇う必要は何もないのかもしれませんね。
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