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フーアムアイ

私は誰?

そういった問い掛けが、欧米諸国の仏教では盛んです。
ある種新興宗教なんかでも多用されていて、その説明にマインドフルネスという言葉が用いられて、日本語訳するとかなり哲学的な事態に陥ります。

私は曹洞禅に生きたので、禅による苦しみとは無縁だったのですが、
ヨーガと共にあるチベット仏教に代表される、ヴィッパサナーとか色々ある瞑想法を続けると、救いの無さに苦しくなる事があるそうです。

私は実感として無いけど、何となくわからなくも無いなって。
全てを許そうとして、全てを受け入れようとして、全てを流れに任せようとして、その先にあるのは虚無でしかなくてね。

それは恐ろしい無力感と、無能感と、孤独を伴うんですよ。
達観し過ぎると友達を無くしますwww

じゃあその虚無ってのは何なのか。
曹洞禅ではその虚無さえ自分自身となる。
虚無の先に自分が居て自分の先に虚無が居て。
解決しないという救いがある気がする。

この悩みは何時までも終わる事が無いんだって事に安心する。
そういう事って、とても馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しいのだと思う。

けど、私は尾崎豊を聴いていると、その喜びを感じてしまうんだ。
苦しんで孤独で不自由で、きっとそこが耐えられなくなってしまうんだと思うけど、苦悩する事を許された時、私は自由だと思った。



幸せにならなければいけないのか?
楽にならなきゃいけないのか?



私は、絶対に違うと思う。

M男さん、

苦しくて、痛い事に、癒されたりするでしょう?
苦しみと痛みの先に、安心があるでしょう?

楽になれるでしょう?

私は、そう信じているのです。
私は、苦悩を愛してるんですよ。

事実として、目の前に、あるじゃ無い!!
苦しみを求める気持ち
痛みを求める気持ち

全然楽じゃ無い、厳しい責めの後に、何を得るのか。

苦しみを受け入れられる、その生き方を私はとても素敵だと思う。

私は、正直何も辛く無い気がするの。
時たま頭にきたり、悲しんだりするけど、結局自分を許して終わっている事に気付くの。

辛さを受け入れて生きる為に、SMがあっても良いと思うの。
性癖である事すら飛び越えて、生きようとする為にあって良いと思う。


苦しみを、辱めを求める気持ち、それは私が苦悩を愛してるのと同じなんじゃないかなと思う。

SMをする事を、許されて生きよう。
そう、思うんだ。



どろっとしたブログ週間です!

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