2ntブログ

正法眼蔵・生死の巻

ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる。


久方振りに仏教の真面目な話しでもしようと思うんだ!!




感情が無い。

そんな事で大学時代悩んでいた。
作品を作るとき、心の底からこれを作るぞ!!!表現するぞ!!!!ってのが無くて、とても作れなかった。

その湧き上がる欲求の様な物が無かったのです。

僧堂に入って、感情をぶつけられてブチ切れて、口論した結果、先輩の所に走って行って、

「感情は鏡でした!ぶつけられて自分の感情が湧きあがって見つけた!私には感情があった!!」

って、喚き散らかした。


このね、正法眼蔵の一節にある。
わが身をも心をもってのは、誤魔化して行方不明になった身体や心の事じゃなくて、

真にあるとわかってる身体や心。

そして煩悩であり欲望。

それを放ち忘れるのです。
仏の家にってのは僧堂の事だね。
そして、生活するという当たり前を体験する。
ニュートラルにこうする、こうする、こうする、その単純な自閉的な感覚と言うのは、酷く「楽」です。
そこに余計な「アイデア」を持ち込むと途端に感情が噴き出す。

尼僧堂は長年の生活があるので、そこに自分の「想い」は要らないし、最悪「祈り」なんてのも要らない。
身体は全く当たり前に、座り、読経し、食べて、出して、掃除をしている、考えなくてもしている事に気づく、感情なんて関係なく、動く事を知る。
鬱病ってのは、そこの感情と身体との接続が過敏になってしまう事かもしれない。
それは肉体側からのストレスで精神が過敏になるのと、精神側からのストレスで肉体が過敏になるのと、まるで同じ事だね。


そして、その当たり前をそのまま出来るのは、感情が何処にあるか、身体が何処にあるかを、常に「気付き」続けるからなのだと思う。


私は何故お坊さんから女王様になったの?と訊かれるたびに答えます。

自分の煩悩って何処にあるか知ってます?
目の前に見えていない物を消したり片付けたり出来ます?
自分の煩悩を目の前に並べられます?

って問い返します。



自分の身体や心が何処にあるのか、それは自分一人では絶対に見つけられません。

感情は相手が居るから見つけられます。
身体も何かに触れて居るから見つけられます。

僧堂に於いては大衆(修行仲間)の中に感情が、身体は伽藍に守られ磨き使う中で。
そして何方も唯坐る中で。

SMをする私は、
私はM男さんの心に触れて自分の心を見つけます。
私はM男さんの身体に触れて自分の身体を見つけます。

その、見つけた心と身体を自分では無い物として観察してみる。

心臓は勝手に動いて、私を勝手に生かしてる。

心を費やさなきゃ、力なんか入れなくて済むし、力なんか入れなきゃ、心なんて費やさない。

けれど、その入れない費やさないってのは、
費やしても入れない。
入れても費やさない。

そういう、両方は無理でも片方は、ってのが中道とも言える。

音の仕組みをご存知だろうか?

振れ幅がでかい程太く安定する。
それと同じでさ、

やりたくてやりたくて落ち着かない時はやるべきで、やり過ぎて辛いならそれは辞めるべきで。
その揺らぎそのものが一本の中心だと思うし、揺らぎが大きければ太い道となる。


そんなでっかい事を風呂場で考えていたら爆睡しちゃったでありますよ!!


で、そんな事をひっくるめて、

生死の及ばない仏性という物が、己ばかりでなく、世界全体そのもので、
世界全体その物は生きて死んでその物だと「気付き」続ける羽目になる。





というわけです。

結論、仏教ってぶっちゃけ本当は、生きる為に要らん事しか言ってないんすよねwwwwww
って話し。
でも、生きる事その物。

だから、すげーなって思うし、大好きなんだ。



コメント

非公開コメント

プロフィール

円香

Author:円香
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
Link
リンク



検索 SM BOOK



検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR