お坊さんは一生お坊さん
- Date
- 2015/08/25/Tue 01:56
- Category
- 瑣末な話し
本当に瑣末な話で恐縮。
本日の円香さんは貴重な遅くまで出勤出来る月曜日に早退致しました。
飼い猫が死んだ故に。
世界で一番可愛い茶トラだったのです。
PMの事務所のベランダでヒーヒー泣いて一度泣き止んでから、実家に帰って、道中も泣きっぱなしで、先程までナデナデしながら更にずっとメソメソしていました。
こんなに泣いたのは久々で少しゲロ吐きそうです。
まだ泣いてるけど。
また、今朝まで元気だった様で。
誰も気付かなかった。
動かなくなっていた、それだけなのだそうだ。
で、私が何故そんな悲しい事を即ブログに書くのか、
私はお坊さんなので、観察するしか能が無いのです。
お坊さんって、残念ながら一度お坊さんになると、一生お坊さんなのだと思ったんです、
どんなに大切な者を失ってもお坊さんなんですよ。
その事に愕然としつつも、ホッとしたのも事実です。
私、説法でも聴きたいと思ったんですよ、お坊さんはどう考えるのか。
でもそれ私にとっては自分が死をどう捉えるか、なので。
たまたまその時にラインしていた人に、仏教の死生観とか、存在観を延々語っていたのです。
それは自分に自分で説法垂れてる訳ですよ。
セルフ説法オナニーと名付けました。
説法オナニーを見せ付けるわけです。
自己完結的です。
ただ、今まで全然仏教の話しなんかしなかった相手に話していたので、自分がどんな事を考えて生きているのか、話す良い機会でもあったと思った。
自分の死生観は時に人を傷付ける事を知っているので、話さない人も居るのです。
何を語ったのか。
死なない方が怖いのだよね。
化け猫になってくれないかなーと思う位生きてて欲しいとは思ったけど、当たり前に死が目の前にある。
あたり前なのですよ、生まれたのだから、死にますよ。
ただ、死と言う物は形骸を失う事で、自分が目の前の人が、生きているという証明は不可能なので、だから、泡沫の夢なのですね。
本当は自分は生きて無いかもしれないと思う、本当は目の前の人は自分の妄想なのでは無いかと思う。
また、必要としてる失いたく無いから存在してると証明する事も出来る。
そうなんですよね、色即是空空即是色ってのは、関係性を表した言葉で。
色にとって空という存在だから、空にとって色という存在。
色ってのは物理的な物、存在、在るという物で、空ってのは無です。
在るから無い、無いから在る、
それは関係性を意味してると思うのです。
私は誰かにとって人間である、即ち人間である。
また、ラピはラピとして存在していて、形骸を失ってもラピは存在する。
物凄く端的に言うと、
覚えている時は存在してる事になる。
本当の死とは忘れられる事だと、漫画とかで格好良く言われるけども、魂の存在とはそういった類の物だと思う。
関係性というのは、ベクトルであってそれそのものでは無いから。
形骸は形骸でしか無いと思う。
一端を失ってもベクトルその物を失う事は、難しい。
人は思い出す。
悲しいと思う。
返事もしてくれ無いのに思い出して、何もでき無い、何も及ぼせ無い無力感に責め立てられる。
だから、葬儀をして供養をする。
行動する事で、一時的に満足する。
行動しなかったら何時迄も苦しい。
煙草を吸いたいと思う、願う、執着する。
煙草を吸って満足する。
行動依存かもしれない。
ニコチンよりも満足出来るのは、行動する事だけ。
まだまだ纏めるには困難だけれど、
行動したら良い、それだけだと私は思う。
それだけなのです。
SMしなかったら妄想に苦しむ。
SMしたいなぁと思う。
SMしたら満たされる。
それを、真理って呼ぶんじゃ無いかなぁ。
世界で一番可愛い茶トラのラピへ、また会える日を信じているよ。
絶対またおいで、畜生道で、沢山徳を積んだよ、ありがとうありがとうありがとう。
今度はもう少し長く生きれる者に産まれてきてね、もっと長く一緒にいてね、またお母さんに会わせてあげるから、また私の所に来るんだよ。
また会えると思うんだ。
悲しくて仕方ないのですが、ほんの少し居ない時間ってだけだと思うの。
また会えるってのは、なんか、当たり前に思うのです。
本日の円香さんは貴重な遅くまで出勤出来る月曜日に早退致しました。
飼い猫が死んだ故に。
世界で一番可愛い茶トラだったのです。
PMの事務所のベランダでヒーヒー泣いて一度泣き止んでから、実家に帰って、道中も泣きっぱなしで、先程までナデナデしながら更にずっとメソメソしていました。
こんなに泣いたのは久々で少しゲロ吐きそうです。
まだ泣いてるけど。
また、今朝まで元気だった様で。
誰も気付かなかった。
動かなくなっていた、それだけなのだそうだ。
で、私が何故そんな悲しい事を即ブログに書くのか、
私はお坊さんなので、観察するしか能が無いのです。
お坊さんって、残念ながら一度お坊さんになると、一生お坊さんなのだと思ったんです、
どんなに大切な者を失ってもお坊さんなんですよ。
その事に愕然としつつも、ホッとしたのも事実です。
私、説法でも聴きたいと思ったんですよ、お坊さんはどう考えるのか。
でもそれ私にとっては自分が死をどう捉えるか、なので。
たまたまその時にラインしていた人に、仏教の死生観とか、存在観を延々語っていたのです。
それは自分に自分で説法垂れてる訳ですよ。
セルフ説法オナニーと名付けました。
説法オナニーを見せ付けるわけです。
自己完結的です。
ただ、今まで全然仏教の話しなんかしなかった相手に話していたので、自分がどんな事を考えて生きているのか、話す良い機会でもあったと思った。
自分の死生観は時に人を傷付ける事を知っているので、話さない人も居るのです。
何を語ったのか。
死なない方が怖いのだよね。
化け猫になってくれないかなーと思う位生きてて欲しいとは思ったけど、当たり前に死が目の前にある。
あたり前なのですよ、生まれたのだから、死にますよ。
ただ、死と言う物は形骸を失う事で、自分が目の前の人が、生きているという証明は不可能なので、だから、泡沫の夢なのですね。
本当は自分は生きて無いかもしれないと思う、本当は目の前の人は自分の妄想なのでは無いかと思う。
また、必要としてる失いたく無いから存在してると証明する事も出来る。
そうなんですよね、色即是空空即是色ってのは、関係性を表した言葉で。
色にとって空という存在だから、空にとって色という存在。
色ってのは物理的な物、存在、在るという物で、空ってのは無です。
在るから無い、無いから在る、
それは関係性を意味してると思うのです。
私は誰かにとって人間である、即ち人間である。
また、ラピはラピとして存在していて、形骸を失ってもラピは存在する。
物凄く端的に言うと、
覚えている時は存在してる事になる。
本当の死とは忘れられる事だと、漫画とかで格好良く言われるけども、魂の存在とはそういった類の物だと思う。
関係性というのは、ベクトルであってそれそのものでは無いから。
形骸は形骸でしか無いと思う。
一端を失ってもベクトルその物を失う事は、難しい。
人は思い出す。
悲しいと思う。
返事もしてくれ無いのに思い出して、何もでき無い、何も及ぼせ無い無力感に責め立てられる。
だから、葬儀をして供養をする。
行動する事で、一時的に満足する。
行動しなかったら何時迄も苦しい。
煙草を吸いたいと思う、願う、執着する。
煙草を吸って満足する。
行動依存かもしれない。
ニコチンよりも満足出来るのは、行動する事だけ。
まだまだ纏めるには困難だけれど、
行動したら良い、それだけだと私は思う。
それだけなのです。
SMしなかったら妄想に苦しむ。
SMしたいなぁと思う。
SMしたら満たされる。
それを、真理って呼ぶんじゃ無いかなぁ。
世界で一番可愛い茶トラのラピへ、また会える日を信じているよ。
絶対またおいで、畜生道で、沢山徳を積んだよ、ありがとうありがとうありがとう。
今度はもう少し長く生きれる者に産まれてきてね、もっと長く一緒にいてね、またお母さんに会わせてあげるから、また私の所に来るんだよ。
また会えると思うんだ。
悲しくて仕方ないのですが、ほんの少し居ない時間ってだけだと思うの。
また会えるってのは、なんか、当たり前に思うのです。